今昔物語集 第24巻 本朝付世俗 第25話 
三善清行の宰相、紀長谷雄と口論すること
(三善清行と長谷雄の大激論)  小学館完訳日本の古典30参考

( 原 文 )

今昔、延喜の御時に参議三善清行と云人有り。其時に紀長谷雄の中納言、秀才にて有けるに、清行の宰相と聊か口論有ける。
( 現代語訳 )

今は昔、醍醐天皇の御代、参議に三善清行(みよしきよつら)という人がいた。
当時、紀長谷雄中納言は文章得業生(キャリア組で入省したところ)であったが宰相である清行との間ににわかに口論が巻き起こったのであった。売り言葉に買い言葉・・・
清行の宰相長谷雄を云く、「無才の博士は古より今に至まで世に無し。和主の時に始まる也」と。長谷雄此れ聞くと云へども更に答ふる事無かりけり。 そしてついに・・・清行の宰相、長谷雄を云わく
「無才の学者などというもんは昔から今に至るまでこの世にはおらん。おぬしがはじめてや!」 
こう云われた長谷雄は一言も応えられず・・・
此を聞く人思はく、「然許止事無き学生なる長谷雄を、然か云けむば、清行の宰相事の外の者にこそ有けれ」とぞ讃め感じける。況や、長谷雄答ふる事無かりければ理と思けるにや。 それを側で見ていた人々は「そこまで言うかあ・・・うわあ、すごおますなあ。あないにすごい学者の長谷雄はんのことをやで、あこまでばしっと言うてしまうんや、清行はんてすごい学者どすなあ」ほんまやで。見てみ、長谷雄はん、清行はんには一言も返す言葉ないやん。おきのどくになあ。
其時に亦○の孝言と云う大外記有けり。止事無かりける学生也。彼の口論の事を聞て云けるは、「竜の咋合は被咋臥たりと云へども不弊。他の獣は不寄付事也」とぞ云ける。 その時(これむねのたかこと)という大外記 (だいげき:太政官少納言局文書課の役職)ですばらしい才能の文章得業生の人がいたのだが。この人がその話を聞いて言わく。

「龍の食い合いいうもんは、 たとえ闘いに負けて地に倒され、相手の餌食になるといえども、負けた方かてまたすごい存在なんや。 他の獣なんかとてもやないけど、その闘いの場に寄りつけもせえへんわいて」
此は、「長谷雄、清行の宰相にこそ此被云ず、他の学生は思ひ懸らむや」と云心なるべし。此を聞く人、「現に然ることなり」となむ云ける。然れば長谷雄実に止事無き博士なれども。尚清行宰相には劣たるにこそ。 これは、「長谷雄は相手が清行であったからこそ、 あそこまで言われたのであって、他の学者などは傍へ寄り付くことすらできないのだ、それより敢えて挑発に乗らなかった長谷雄こそエライ」という意味だったのであろう。

これを聞いた人は、「なるほどほんまどすなあ」と皆うなづいたのであった。

長谷雄は全く優秀な学者であったがやはり清行の宰相には勝てなかったのである。

其後、長谷雄、中納言まで成上て有けるに、大納言の闕有るに依て、此れ望むとて、長谷に詣て観音に祈り申しける夜の夢に示して宣はく、 その後、長谷雄は中納言の役職にまで出世したが、 大納言職に欠員が生じたのでその地位を手に入れる べく願をかけ、 長谷寺に参内して観音様に祈願を込めていた。やがてある夜、彼の夢枕に長谷寺観世音 菩薩様が現れ
「汝ち”文章の人たるに依て、他国へ可遣き也」 「これ長谷雄や。なんじは詩文に優れているからして 他国へ遣わすはずになっているぞよ」
と見て、夢覚ぬ。「何なる示現にか有らむ」と怪み思て、京に返けり。 長谷雄はがばっと目覚め・・・「うーん・・・ 夢やったのか・・・あれはたしかにこの長谷寺の観音様。そやけど あのお言葉いったいどういう意味なんや? 他国へ遣わすやて?」 首をかしげながら京都へ帰っていった。
其後、長谷雄の中納言、幾程を不経して死にけり。然れば、「示現の如く他国に生れにけり」とぞ人疑ひける。 その後ほどなく、長谷雄中納言は亡くなってしまった。ということはや、「観音さまのお話のとおり、他国に 生まれ変わってはるんやろか?」とみんなでうわさしあったのであった。
世に紀中納言と云、此れ也。 世に言う「紀中納言」とは実にこの人のことなのである。
彼の清行宰相は延喜の代の人なれば前に失にけり。三善宰相と云、此也、となむ語り伝えたるとや。 一方の清行参議は延喜の代(醍醐帝の時代)の人であるが、長谷雄よりも先に亡くなっている。三善の宰相とは実にこの人のことなのである、と今に伝えられている。

三善清行 847~918(承和14~延喜18)平安前期の文人官吏。「延喜格・式」の編さん事業に参画している。914年(延喜14)当時の政治社会問題を縦横に論じた『意見(封事)十二箇条』を上奏した3年後,参議に昇り宮内卿を兼ねたが翌年卒去した(72歳)。