長谷雄草紙 中央公論社日本絵巻大成11長谷雄草紙(1989再版)より


第一段 見知らぬ男、長谷雄卿に双六をいどむ

夕闇せまる長谷雄邸の門前

門前には警護の武士たちの馬が引き出されている。白鞍を置き、舌長鐙を懸け、鮮やかな 朱の鞦(しりがい:掛け物)で飾られている。
「尉どの、尉どの、殿は今時分内裏へとの下知。いったい何用でございますかな。」
「いや、わしもとんと解せぬがの。構えて他言は無用じゃ。おっつけ殿のお出ましになるぞ。」
三人の武士たちはそれぞれに短い会話。
門の内側には長谷雄卿乗用の八葉車(牛車)が轅(ながえ)をおろしてとめられている。
そこに柿色の狩衣の男。しきりに屋形のあたりを気にしながらそっと近づいてくる。

長谷雄を訪れる見知らぬ男

日暮れ頃、お召しによって参内しようとしていた長谷雄のもとに一人の見知らぬ男が訪ねて きた。突然,入来の男、切れ長の明眸、高い鼻、大きな口、しかもりっぱな髯まで蓄えている。
柿色の狩衣、袴は黒と白の染め分け、袖口にわずかに見える薄平くくりの赤い紐が印象を 強くする。

<眼光鋭く賢げでただの人とも思われず>、長谷雄は妻戸を開いて縁に招じ入れる。

男、「徒然に待て双六を打たばや、と思いたまわるに、その敵、恐らくは君ばかりこそおはせめ、と思いよりて参りつるなり」、双六の相手をとさがしていましたが、私の相手となるお方は 恐れながら音に聞く長谷雄の中納言さま以外にないと思いまして、ここに推参した次第です。
長谷雄、「いと興あること也。何処にて打つべきぞ」、なるほど、おもしろい。して、何処で打と うというのじゃ。
男、「これにては悪しく侍ぬべし、我がいたるところへおわしませ」、はい、どうか私のところへ お運びください。

こうして男はまんまと長谷雄をおびき出してしまう。

男に誘い出される長谷雄

束帯姿の長谷雄に対し男は狩衣。しかも中納言という廟堂の枢機にいる長谷雄との妙な組 み合わせの道行きであった。もともと束帯の公卿の参内は牛車と決まったもの。徒歩でいく ことが既に前代未聞の出来事である。すそを石帯にはしょっているものの歩きにくくてしかた がない。
天をつく大きな木がそびえている。荷車が引き据えられている。魚屋。遅い夕餉を買いにきた 女。猿回し。走り回る少年。誰も前を過ぎていく珍奇な道中の二人に見向きもしない。
長谷雄、<ものにも乗らず、供の者も具せず、ただ一人、男に従ひて行くに朱雀門のもとに至りぬ。

第二段 朱雀門楼上での双六の勝負

長谷雄を朱雀門に誘う鬼

長谷雄は男の導くままに闇の迫る都をあるく。そしてやがて男が指さすかなたにそびえる 楼門が現れる。石垣をめぐらし暗がりの中にも朱の大きな丸柱が見える。
朱雀門であった。

長谷雄は男に引き上げられて朱雀門の二階に上る。二人は双六盤をすえて向かい合う。
「さて、掛け物は何に」

男、「我負け奉りなば、君の御心に見目も姿も心ばへも足らぬ所なく思さむようならむ女を奉るべし」、私が負けたら卿に絶世の美女をさしあげましょう。「君負け給なば如何に」、もし卿がお負けになったら?

長谷雄、「我は身に持ちと持ちたらむ宝を、さながら奉るべし」、余の持っている財宝という財宝 のすべてをとらそうぞ。

双六に敗れて正体を現す鬼

裾を長く引く長谷雄が賽を入れた筒をはっしと打つ。男は両の手に白の石ひとつを切る。
長谷雄は打つほどにつぎつぎに勝つ。そのころから長谷雄は地の底からの振動を感じ始める。
長谷雄が打つ。朱雀門が音を立てて揺れる。

男は半身に構えながらも、きっとにらみすえる。それを見て長谷雄は驚く。顔や手はすでに鬼の姿。<負くるに従ひて、賽を掻き、心を砕きける程に、元の姿あらはれて、恐ろしげなる鬼のかたちになりけり> それでも長谷雄は打ち続ける。朱雀門が音を立てて揺れる揺れる。

長谷雄は勝った。
鬼はまた先ほどまでの男のかたちになって長谷雄を朱雀門の下までおろしてくれた。

男、「辛くも負け奉りぬるものかな。しかじかその日わきまえ待つべし」、からくも負けてしまった。約束は守るのでその日を待たれよ。

第三段 勝負に負けた鬼の約束

男、美女を伴って長谷雄邸に参向

双六の勝負に勝った長谷雄は見知らぬ男-朱雀門の鬼との約束、美女の到来を待つ日が続いた。そしてその日。

長谷雄は心もそぞろに邸内の一室をしつらえて待っていた。夜が更けると例の男が光るような美女を伴って参入してきた。長谷雄は高鳴る胸を押さえてこれはこれは美しい女性じゃ。

長谷雄、「これはやがて賜るか。」 この姫はいつかは自分のものにしたい。
男、「左右に及ばず。負け奉りて弁へぬる上は返し給うべき要なし。」負けた以上お約束通り さしあげますればお返しになることはありません。
男続けて、「ただし、今宵より百日を過ぎて、まことには打ち解けたまえ。もし百日がうちに侵し 給なば、必ず本意なかるべし。」 100日の間だけは卿のものにしてはなりませんぞ。
長谷雄、「如何にも、のたまはせんままにこそ。」

翌朝、長谷雄が女をみると、これほどの美女がこの世にあろうか、我と我が目を疑うばかり。
何日かは男のいいつけを守っていたが次第に恋慕の心が高まる。傍らから片時も離れること ができない。

第四段 長谷雄の違約

一夜の契りに美女は水と化す

もう我慢がならぬわ。あの男、100日、100日と念を押していたがすでに80日もの日を数えたことじゃ。構うことはない、今夜こそ。
長谷雄が女を引き寄せ肌に触れたとたん、ひやりと冷たいものが体を走った。おや変だぞ、と胸といわず腰といわず狂おしくかき抱くと。
彼女の体はびしょびしょの水浸しではないか。姫、いったいどうしたというのじゃ。衾をかなぐり捨てて飛び起きた長谷雄の前にはいままで女が着ていた着物が水浸しで残るばかり。顔も、胸も、腰も、何も見えない。畳の上から這うように流れる水が簾の下をくぐって縁先へと流れていく。
      <女、水になりて流れ失せにけり>
長谷雄は驚愕と自失に呆然とするばかりであった。その夜から長谷雄は悶々の日を送る。思っては嘆き、嘆いては泣く。<中納言、悔いの八千度悲しめどもさらに甲斐なかりけり>

第五段 天神の加護により鬼は退散

路上に鬼と出会う長谷雄

かくて三ヶ月が過ぎた。白丁二人の松火に照らされながら一両の八葉車が夜更けの都大路を乾いた音をきしませていた。内裏より退出する長谷雄の車である。
その前に立ちはだかる者がある。あの男だった。

男は呼びかける。「君は信こそおはせざりけれ。」あなたはなんと情けないひとよな。

と見る間に男は怒髪天を突き、筋骨隆々たる赤鬼となった。鬼はますます近づく。もともと、この男は朱雀門に棲む鬼だったのだ。また美女と見たのは、実はたくさんの死人の中から、眼は眼、口は口、胸は胸、腰は腰、とすべてよいところばかりを取り集めて鬼がつくりなおした仮の人間だったのだ。

とっさに長谷雄は車の中で瞑目して合掌した。<北野天神たすけ給へ>と念じ続けるとはるか空のかなたから神の大きな声がとどろいた。これを聞いた鬼はたちまち退散した。

長谷雄は追いかける、「どうかお願いだ、あの姫をもう一度返してくれ」

鬼、「百日すぎなば、真の人になりて魂定まりぬべかりけるを、口惜しく契りを忘れて侵したる故に、みな溶け失せにけり。如何許りか口惜しがりけん。」100日を過ぎれば魂を持った人間として生き返ることができたものを、あたらおまえが約束を破ったために、みな溶け失せてしまった。
このうつけが!

鬼の声は地鳴りとなって響き渡り、やがて高笑いとなって空を西に走り、消えていった。